yuichi0613's diary

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[政治]日経BPの花岡信昭氏記事「記者クラブ制度批判は完全な誤りだ」に対して個人的つっこみをちょっと書いてみる

(以下、かなり読みづらいwので、他のブログに改めて書き直しました。よろしければこちらをご覧ください→参照

はてブで話題になっていたので読んでみた。
2009年9月24日付け日経BP時評コラム花岡信昭氏”記者クラブ制度批判は完全な誤りだ”(参照
読んでちょっと気になったことが多かったので、個人的つっこみを書いてみる。
記者クラブについては、最近ではフリーランスの上杉隆さんと「ビデオニュース」の神保さんががんばっていた9月16日の「民主党の会見がクローズドじゃん、鳩山さんウソツキ!事件」(?)で問題になったことが記憶に新しい。民主党への政権交代に伴って自民党的な「政治の閉鎖性」が改善されるだろうという周縁ジャーナリズムの方々(私も含めて)からの期待があったけど残念ながらという。

で、そのタイミングで花岡信昭氏という産経新聞の論客が「記者クラブ批判」について反論を申し上げた。

その感想。
長くなりました。

ちなみに元記事をほぼ全文引用してるので、かなり問題ありです。もしなにかあれば言ってください、編集または削除します。

↓では始め。

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記者クラブ制度批判は完全な誤りだ

タイトル。そのあとの小文は略した。つまりこの文章では「批判が誤りな理由」が開陳されると。

 前回コラムに引き続いたテーマで恐縮だが、どうも政治報道のあり方にかかわる重大な問題をはらんでいるようにも見受けられるので、あえて続報を。

政治報道のあり方にとって、「記者クラブ制度批判」は重大な問題をはらんでいるということ。
さて。

「官僚の記者会見は禁止する」という政権の方針が、基本的におかしいことは前回も指摘した。この指示をまともに受けて、気象庁長官の定例記者会見もやめたというのだから、官僚の世界は不可解きわまりない。そういう体質だから、政治の側からつけ込まれることになる。これまで、その必要性を重視して記者会見を行ってきたのであるならば、なぜもっと自信を持てないのか。

「前回の記事」(参照)も読んでみたけど、要は「これまで大手メディアは最大の取材源である官僚に対して密着取材してきたのに、政治側がそれをさせないなんて何事?何様?」ということらしい。
記事では一応、新政権の狙いについても理解は示す。
「新政権の狙いは分からないでもない。政策の方向は政治家が行う。そのためには官僚たちによけいなことは言わせない、というわけだ。」(引用元は前掲記事)
その上で、記者側の論理を引く。
「だが、ここまで取材規制を厳重にしてしまうと、行き過ぎもはなはだしいといわなくてはならず、取材現場の実態を知らない素人の感覚としかいいようがない。もっと現場を勉強してからことを起こすべきだ。」(引用元同上)
この、「取材現場の実態」というのがクセモノ。
新政権の狙いもわかっていて、その上でこの主張なので、これって、「俺達これまでそうしてきたんだから、勝手に変えんなよ」ってことじゃまいか。
なお、上記のようなもともとの狙いが途中で捻じ曲がって、「官僚による会見全面禁止」に傾いていることは花岡氏同様、憂慮すべきだと思う。
「官僚会見禁止」と「記者クラブ批判」の根は違うんじゃないか?

 鳩山政権は閣僚などの記者会見をオープンなかたちとすることも考えているらしい。かつて、小沢一郎幹事長は、代表時代に週刊誌などにも開放したかたちの記者会見を実施したことがある。これを受け継ごうというわけか。小沢氏は「記者会見はサービスだ」とも言ってのけた。

民主党が野党時代って、週刊誌記者は記者会見に入れなかったんでしたっけ?党本部4階で行われていた幹部の定例会見や、例えば代表選候補の会見とかも、週刊誌はわからないんだけど、フリーの方もフリーカメラマンも入っていたように記憶しているし、「ザ・選挙」や「ビデオ・ニュース」のようなインターネット・メディアも取材で入っていた。
ん。小沢氏の件は、10数年前のことを言ってるのか。

ちなみに「民主党の記者会見のオープン化」についてですが、花岡さんはその場にいなかったかもしれませんが、小沢氏が代表在任時の記者会見で上杉さんが質問して言質を取り、その後、今年5月に鳩山氏代表就任直後にホテルで行われた記者会見でもう一回上杉さんが質問して言質をとってます。

メディアとフリーランスライターの役割は異なっている

 記者会見の開放方針は、特定の媒体に定期的に執筆しているようなライターや著名ブロガーなどの「個人」を対象として想定しているようだ。記者クラブ加盟社以外にも開放しようというわけで、その限りにおいては結構なことなのかもしれない。

花岡氏も記者会見を記者クラブ加盟社以外にも開放しようという試み自体には若干肯定的。なるほど。
では次。

 だが、現在の記者クラブに所属しているメディアが日常的に行っていることと、フリーライターやブロガーらの仕事は性格が違う。記者クラブ所属のメディアは、その公的機関が持つ「第一次情報」に密着取材し、報道しているのである。

記者クラブ在籍記者とその他の記者の仕事の違いについて。
フリーライターやブロガーは二次情報以降の取材、報道をしているんだろ、と。
この「密着取材」というのがミソっぽい。

 そこには、おのずと「記者クラブとしての決まりごと」が出てくる。分厚い白書や調査報告書のたぐいなどは、精緻な読み込みや関連取材、執筆作業にある程度の時間が必要で、「解禁日時の設定」といったことが行われる。筆者の体験では、政治資金収支報告書などは1週間前の事前発表が慣例だった。

 記者クラブを完全開放して、そういう「しばり」が通用しなくなると、中途半端なかたちで報じなくてはならない。記者クラブの「報道協定」は国民の知る権利を保証するうえでの「知恵」なのだが、一般にはどこまで理解してもらえるか。

密着取材をする上では、記者クラブと官僚の間で「決まりごと(報道協定)」が結ばれる、と。
で、それがあることで記者は資料の精緻な読み込みや関連取材などができ、記事の質の向上に役立つと。「報道協定」がなくなると記事の質が落ちるし、国民の知る権利にも寄与するんだけど、一般的には理解してもらえないかもしれない、と。

一定の理があることは認めるし、そしてそのクラブがあることで記事や取材の質が上がるというなら、クラブを作ることには反対はしない(記者クラブがあることで質が上がるとは思わないけど)。

あと、花岡氏は「記者クラブなくなっちゃうと、普段の取材や記事の質にまで影響出るから駄目」って言ってるけど、これは記者会見が記者クラブにのみ開かれていることを問題にしている方々にとっては「そこを批判してるんじゃないっす」ということだと思う。

個人的には記者クラブ全廃は考えていない。一方で、記者クラブはその排他性が問題だと思っているので、内野が積極的に外野の取材を許すのが求められると思う。つまり、競争しようぜの精神。
ここは資本の理論(取材源は独占したい)とジャーナリズムの精神(報道機関は多元性があるほうが質は向上する)が克ち合うので、内部の方々の良心に任せますけどね。

 官僚の記者会見廃止と閣僚会見の開放はどこでどうつながっているのか、よく見えてこない。私見を許してもらえば、この政権は、「言論、表現、報道の自由」をとことん重視するイメージを打ち出すほうがいいのではないかと思うのだが、いったい、どちらを向いているのか。

前者は、「官僚主導から政治主導へ」。捻じ曲がって「官僚の会見禁止」になった。後者は、「ディスクロージャー」じゃないか。この認識違うかな?
ただ、神保氏のブログとか読むに平野官房長官など記者会見のオープン化に抵抗する勢力があるらしいので、ガバナンスができておらずブレが見出されるので「どうつながってるのか、よく見えてこない」ということもあるかも。

日本の取材開放度は米国よりも高い

 そこで、またぞろ、記者クラブの「閉鎖性」に対する批判が出てきている。記者クラブ批判が高まるということであれば、長い間、メディアの世界に生きてきたものとして、無関心ではいられない。日本の記者クラブは閉鎖的だという主張は完璧な間違いである。

日本の記者クラブは閉鎖的ではない、とのこと。
その実証は以下です。

 アメリカのホワイトハウスで記者証を取得しようとすると、徹底的に身辺調査が行われ、書いてきた記事を検証され、指紋まで取られる。そのため記者証取得には何カ月もかかる。大統領に近づけるわけだから、少しでも挙動不審なものは排除しなければならない。国家を代表する大統領の安全が最優先されるということをメディア側も理解している。

んー。
花岡氏の主張としてアメリカでの閉鎖性が実証されるには、「閉鎖性=内部と外部の接触、交流が少ない」ことを証明しないと納得できないなあ。
ここで書かれているのは、記者として身辺が怪しいもの、書いてきた記事の内容が乏しいもの、大統領の身に危険を及ぼす可能性のあるものは締め出すべきだということをメディア側も納得しているということだろう。
厳重だから、閉鎖的と言いたいのかもしれない。
ちなみに、日本で記者証を取得しようとするときには「大手メディアに所属」という条件だけでよい。
実にゆるい。
以下にも本人の記述がある。

ちなみに、他の社の新聞記者のひとに、「アメリカじゃあ要人に深く取材するには大学の同窓生だったとか、親交がないと駄目だからなかなか取材できないんだよ」とか聞いたことある。つまり見えないところで記者と取材源が会うというようなでシークレット・サークルみたいなのがあるというのはおそらく事実。その意味で外国人からすると壁がすごい高い。

 日本の場合はどうか。内閣記者会には、日本新聞協会加盟の新聞社、通信社、放送会社に所属してさえすれば、簡単に入会できる。その社の責任において、入退会が頻繁に行われる。むろん、警備公安当局はひそかに記者の思想傾向の調査などをやっているのだろうが、これが表に出ることはない。

まあそうなんだろけど、ここで問題なのは、内閣記者会に入会するための日本新聞協会に加盟することの障壁が高いってこと。
これは、日本で紙を発行する新聞社をやるには参入障壁が高いこと。これは新聞産業がほぼ寡占状態にあること(他国と比べて異常な新聞の普及率、戸配率95%程度であることなど)、そして結果として戦後に創刊した新興紙がだいたい廃刊・休刊の憂き目にあっていることを考えればわかると思う。で、「新聞社」ならいいのかってことで、インターネット新聞を発行している会社が申請しても協会には入れない(いま申請したらどうかはわからないけど)。

あと、内閣記者会に登録しているのは大手紙とキー局とNHK、時事と共同、地方紙の北海道、中日、西日本あたりくらいじゃなかったかな。

加えて、これ日本新聞協会の加盟社以外は入れないでしょ。

アメリカは事情が違う。

情報が古いし、よく知らないので9.11以後変わってる可能性があるけど、岩瀬達哉『新聞がおもしろくない理由』(講談社文庫)についてのブログTAKUMI”新聞が面白くない理由”(参照)に「日本では記者クラブに入れない『赤旗』にも記者証が発行」という話がある。
あと、ホワイトハウスではないけど、フリーランスだけでなくブロガーもジャーナリストとして認められている事例が以下に載っている。
2009年2月21日付け、中岡望の目からウロコのアメリカ”クリントン国務長官と単独インタビュー:ブロガーとして米同行記者団に加わる”(参照

さて。

 内閣記者会には外国メディアも加盟している。その開放度はアメリカなどよりもはるかに高いといっていい。その実態を知らないのか、知っていてもあえて無視するのか、外国メディアは日本の記者クラブ制度の閉鎖性ばかり非難する。

詳しくは、上杉隆『ジャーナリズム崩壊』(幻冬舎新書)にある。本書中、有楽町にある外国特派員協会(The Foreign Correspondents' Club of Japan)が開く会見について、外国人記者はいつも記者クラブに締め出されているので、日本のメディアを出入り禁止にしようという意見が出たらしいが、報道の自由を尊重してそういうことはしないと決めたという経緯があったという。

 この傾向は国内のメディア論の学者などにも見られる。記者クラブを「諸悪の根源」視するような態度だ。これもまた、実態無視の暴論といわなくてはならない。

ここでも現場の論理が出てきた。まあ、中にいたらそうなんでしょうね。実際、あるからこそそこには理があると思う。

記者クラブ制度は国民の知る権利を担保している

 新聞社在勤中に、新聞協会の記者クラブ問題小委員会のメンバーとして「記者クラブ見解」を作成したことがある。以前は、記者クラブを「親睦組織」と規定していたのだが、それを「公的機関の情報公開、説明責任という責務」と、メディア側の「国民の知る権利を担保する責務」が重なりあう場に位置するといった表現に改めた。

実際は、便宜供与の場。
これも詳しくは前掲『新聞が面白くない理由』参照。

 親睦組織という位置づけでは、公的機関の側が記者クラブの部屋を提供するといったことの説明がつかないためである。たしかに、かなり前までは、電話代やコピー代など諸経費を公的機関の側に負担させるといったことも行われていたが、さすがに、いまではそういう不明朗なことは払拭された。

この改善はいいことだろう。
しかし、公的機関も広報対応が記者クラブ対応になってるということも聞く。まあ、文句あっても公的機は言えないだろうなあ。

 記者クラブに安住して、公的機関が垂れ流す情報をそのまま報道している「横並び体質」を批判する向きもある。これも実態とは違う。記者クラブで発表ものの記事ばかり書いていて仕事している気になっているような記者は、いまや淘汰されつつある。経営状況が厳しいメディアがそういう記者に高給を与えていてすむわけがない。

記者の淘汰に関してはそうかもしれない。実際には検証は不可能だからなんともいえないけど。
ただ、公的機関が広報対応として多量の情報をペーパーで出すために「文章を縦から横に変えるような記事」ようないわゆる発表記事ばかり書くことに記者が時間を取られてしまうという弊害もある。
これについては、記事にするしないの決定が「他と比べて」という思考になっている「横並び体質」に特有の現象だと思うがどうだろうか。

 たしかに、取材というのは「一対一」が原則であるのはいうまでもない。だが、政治取材の現場ではこれにも限界がある。「夜討ち朝駆け」が主体になるのだが、当然、各社の記者と一緒になる。同じ話を聞いていても、ピンとくるかどうかで記者の質が試されることにもなる。ときには、いったん、お開きになって相手の家をそろって出た後、車で家のまわりを一回りして帰ったように見せかけ、もう一度、上がりこむといった芸当も必要になる。

政治記者の取材テクニックについて。ここらへんは経験者の話として聞いておく。

 政治取材には「記者会見」と「懇談」がつきものだ。会見は相手の名前を特定して報道していいケースである。「懇談」というのは、「政府首脳」「政府筋」「○○省首脳」などとして、発言者をぼかして扱うものだ。会見開放となると、いったいどこまでオープンにするかが現実問題として厄介なことになる。

この「匿名」「オフレコ」文化は悪しき文化だと思うけどなあ。日本の文化だから、という言い訳はおそらくそうなんだろうけど、日本の政治報道を見ても、これまでの自民党政権時代の記事は、派閥の領袖以外の実名は出ずに、あとは本文にあるように「政府筋」とか発言者の責任が回避されてしまう。
これは政治部など硬派記事だけでなく、社会部など軟派記事、例えば事件の警察関係者の話とか、今春の小沢氏献金事件の時の検察リークの記事にも共通する問題意識な気がするが。

 なぜ、「懇談」が必要か。その問題をめぐるさまざまな事情、背景などを、ざっくばらんに聞き出すためである。記者会見という公開の場では言えないことも、懇談の場では可能になる。政治家や官僚の側もそのあたりの呼吸を心得ていて、「ここまでは会見でしゃべる。ここから先は懇談にまわす」という対応をする。

なるほど。次。

 これも長い間かけて、政治取材の現場でつちかわれた「知恵」である。これによって、読者、視聴者には、より深い情報が伝えられることになる。政治は建前と本音の世界だが、こうした取材手法によって、ぎりぎりまで本音ベースの背景説明が可能になるわけだ。

密着取材によって、政治家への本音ベースの取材が可能になり、それが引いては読者、視聴者へのより深い情報提供になって返って来るんだよ、ということか。
で、これは記者クラブと関係あんの?

ネットの時代になってもメディアの重要性は変わらない

 日常、なにげなく読んでいる新聞記事には、そういう取材現場の蓄積があることを知ってほしいとも思う。「ニュースはネットで見るから、新聞はいらない」という声も少なくないが、これも重大な事実誤認だ。

大変な思いをして1行の記事を書いていることは話を聞いて知っている。

 ネットにニュースを提供しているのは、新聞社や通信社なのである。ネット自体が第一次情報の取材体制を持っているわけではない。筆者は仕事の必要上、全国紙全紙を購読して毎日、目を通しているが、その一方でネットニュースも点検する。ネットでどう扱われているかを知ることも重要な示唆を与えてくれるからだ。

第一次情報の取材体制という意味では、事実としてそうだろう。
ただ、それがカネにならない=Yahoo!メシウマな現状だし、政治家にくっついて獲得した記事が果たして面白いのかはちょっとわからない。個人的には、あんまり興味ない。

 鳩山政権に要望したいのは、そうしたメディア状況を踏まえたうえで、「取材、報道の自由」をどこまでも守り通す構えを取ってほしいということだ。官房長官の初記者会見で「言論統制をするのか」といった趣旨の質問が飛び出すようでは、民主党政権の名が泣く。取材の機会は多ければ多いほどいい。それが、国民の知る権利の拡充につながるのである。

>取材の機会は多ければ多いほどいい。それが、国民の知る権利の拡充につながるのである。
良いこと言った。
ってことは取材主体も多いほうがいいね。
記者クラブ開放しましょう。