yuichi0613's diary

yuichi0613の雑記、写真、日々の記録。

『最高の人生の見つけ方』

ふと映画が見たくなった。
最近は刺激がないなあと思いつつ、店で見つけたのは『最高の人生の見つけ方』(2007年)。

wikipediaはこちら。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E9%AB%98%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%91%E6%96%B9

監督はロブ・ライナー氏。
この監督は『スタンド・バイ・ミー』(1986年)も手がけているとのこと。
原題は『The Bucket List』。
つまり「棺おけリスト」。棺おけに入るまでにやっておきたいことのリストということだ。
ジャック・ニコルソンモーガン・フリーマンの両主演。

物語の内容は、病院のオーナーで資産家のエドワード(ジャック・ニコルソン)と自動車修理工のカーター(モーガン・フリーマン)が、お互い余命半年を宣言され、ふとカーターが書いた「棺おけリスト」に基づいて人生のやりたいことをやるため病院を抜け出し、人生最後の旅をするというもの。

この物語は序盤に出てきた「死の受容プロセス」を巡る物語だ。死を前にした患者が死を受容するために、「否認」、「怒り」、「取引」、「抑鬱」、「受容」という段階を辿る(これはアメリカの精神科医であるキューブラー・ロスが1969年に著した『死ぬ瞬間』(原題:On Death and Dying)に由来する。なお、著者自体は、患者が必ずしもこのプロセスを辿るとは限らないとしている)。
二人が同じ境遇で同じ旅をすることで、途中の段階をスキップして「受容」の段階まで進めたのだと考えられる。


この二人のキャラクターには、人生にとっての大事なものについていくつかのことについて大きな対比をさせている。

もっとも対照的なのは、仕事に対するスタンス。エドワードは性にあっていたのか16歳から「仕事と結婚」し、仕事によって「大統領からも一目置かれ」るくらいの成功を収めた。まさに仕事で身を立てた人物。
一方のカーターは、歴史学教授を志した大学生時代に妻の妊娠が発覚し退学。その後は家族を養うため「仕事を選ぶ」ことなく、「あっという間に45年が経った」と感じるほど一心に働いた。自身のやりたいことには目もくれない人生。
二人の仕事への態度はそれぞれ自己実現の手段として認識した者と、自身の夢を諦めてまでしなければならないことだと認識しているという違いがある。その他にも、お金、宗教、人生の夢、結婚や妻について、子どものことなども対照的である。

そんな、ほとんど人生に対する態度が反対の二人が、たまたま同じ病室になった。

病院のシーン、二人が同じ日に「余命半年」の宣告をされた次の日から二人の旅の物語、そして「死の受容」の段階が始まる。

そのリストは以下(英語版wikipediaから拝借。日本語訳は筆者による試訳)。
※なお、文頭にCはカーターの願い、Eはエドワードの願い。

The "Bucket List"

C 1. Witness something truly majestic(荘厳な景色を見る)
C 2. Help a complete stranger for the common good(見ず知らずの人に親切にする)
C 3. Laugh till I cry(涙が出るほど笑う)
C 4. Drive a Shelby Mustang(シェルビーのマスタングに乗る)
E 5. Kiss the most beautiful girl in the world(世界一美しい女性とキスをする)
E 6. Get a tattoo(タトゥーを彫る)
E 7. Skydiving!(スカイ・ダイビングをする)
C 8. Visit Stonehenge(ストーン・ヘンジに行く)
C 9. Spend a week at the Louvre(ルーブルで一週間過ごす)
C 10. See Rome!(ローマ見学)
E 11. Dinner at La Chevre d'Or (ラ・シェーヴル・ドールでディナー)
C 12. See the Pyramids(ピラミッド見学)
C 13. Get back in touch (previously "Hunt the big cat", added after being earlier added and crossed off)(エドワードが娘と再会[以前は『ライオン狩り』だったが、線で消した])
C 14. Visit Taj Mahal, India(インドのタージ・マハルに行く)
C 15. Hong Kong(香港)
16. Victoria Falls(ビクトリア大滝を見る)
17. Serengeti(セレンゲティ 国立公園[タンザニア])
18. Ride the Great Wall of China(万里の長城でバイクに乗る)

名所や遺跡など、知的な匂いのするカーターの願いとは対象に、味覚など感覚的なエドワードの願いが対照的でおもしろい。

この旅に出る前、リストを「単なる願望」「できるわけない」と旅に行くことを渋るカーターに対し、エドワードが「俺はそうは思わない」「チャンスだ」と言う場面がある。
かたや、やりたいことを「できない」と思っているカーターと、やりたいことは「できる」と思っている対照的な二人。
ここに二人が「同じ船に乗り合わせた」奇跡が始まる。この物語をカーターの自己実現の物語と受け取ったとき、エドワードはカーターの願望を実現する力(財力、実行力、調整力)を持つ者としての機能を働かせ始める。頭で考えるだけのカーターだけでは、こういった大胆な行動には出れなかっただろう。

そのあとはエドワードの秘書であるトーマス(本名はマシュー[マタイ])の有能さにも助けられ、リストを着実に実現していく。道中、二人がお互い持つ考え、そして人生をぶつけていく。
その中で、二人が譲れない一線として持っていたのは、カーターは「妻」であり、エドワードは「エミリー(娘)」だった。この物語は人生で「一番大切なもの」に気付く物語であった。
譲れない部分とは、逆に強くこだわりを持つ部分でもある。

エドワードは女性問題については潔癖だった。
香港ではエドワードがけしかけた女性の、エベレストの話を聞いて目を輝かせるカーターが印象的(おそらくこの女性は気を利かせてバージニアに似せた女性を選んだのだろう)だったが、これを境に妻が最も大事だという熱い気持ちを思い出す(浮気をしないということには、キリスト教的な倫理観も強く影響している気がする)。

また、二人がリストの実現を続けていくことは、最終的にはエドワードがカーターの人生を背負うことでもあった。レストランでの喀血、エベレスト登頂を断念したとき、すでにカーターの悲劇は暗示されていた。このあと病に倒れたとき、リストについて「あとは頼む」とカーターは言う。
エドワードは恐らく、この旅によってすこしだけ余命を延ばした。奇跡のようなことだとも言っていた。カーターがくれたものでもあった。
そして、エドワードにとってもっとも実現が遠いと考えられる「見ず知らずの人に親切をする」を実現する。この無償の愛は、金や成功に腐心していたかつてのエドワードではありえない選択であろう。ここは「信仰心」の復権に通じるところがある。
そして最後のリストの実現は、お互いの死後、エベレストで「荘厳な景色を見る」こと。おそらくエドワードも登頂はできなかったのだろうが、その意思は彼の分身であるトーマスによって実現する。リストの実現が、意思が、人と人をつなぐ。

そしてこの物語は「一番大切なもの」、それが家族であると気付く物語でもあった。「夫に戻れた」というカーター。そのカーターがエドワードへの手紙で書いた「人生を楽しめ」という言葉。「人とは違う」という言葉に囚われた思い込み。そのために実現しなかった娘そして孫娘との邂逅(ここで「世界一の美人とキスをする」が叶う展開は、単純にすごい)。
エジプトで問われた「人生に喜びを得られたか?」「他者に喜びを与えたか?」という問いに、エドワードはここで胸をはって答えられるだろう。

映画の冒頭と最後のシーンはつながっている。
トーマスのエベレスト登頂。
カーターの声で「エドワードが永遠に目を閉じたときに、彼の心は開かれた」というセリフを語る。これは死後の生を語っているので、宗教の話だと考えてもいいかもしれない。
たしかにカーターの手紙には牧師の話として、「人々という大河の流れの先に天国がある」という言葉があった。さきほどの「彼の心は開かれた」という言葉は、天国で先に待つ敬虔なキリスト教徒のカーターが、扉の前でエドワードを見つけてかけた言葉なのではないだろうか。

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私はあまり素養がないので実感としてわからないが、倫理観といったものはキリスト教的な意味合いの強い作品ではないかと思った。
しかしその割にインドで言及していた遺体の火葬をしていたり(キリスト教では火葬は避けるイメージがある)、仏教の輪廻転生の内容に触れたり、エジプトの古代宗教における死後のことに触れているのが特徴的。(エベレストに埋葬された棺もまるでネタのように、缶カラだ。)
これは、死の受容の段階として、死を考えること。つまり世界の様々な宗教の死や死後の考え方に触れているのではないかと思う。棺を缶にしたのも、なにかひとつの宗教的な考えに囚われないということだろう。

死を目の前にして死を受容するなどというのは、恐らくなかなかできることではない。
しかし、この作品のように積極的に生を認める、つまり自分が大切なものを大切だと心から言えるようになって初めて、自身の生を認め、そして生と表裏をなす死を認めることができたのではないかと思った。

死を前に私たちは、自分の生を思いっきり認めることはできるだろうか。



※ちなみにエドワードがダンテの『神曲』(原題の直訳はむしろ『神聖喜劇』)について触れたシーンがあったが、浅学のため読んだことがない。どういう意味合いがあったのだろうか。たまたま読もうと思っていたときであったので、これもいい「チャンス」なのだろう。
有言実行のため、最後に付け加えておく。