yuichi0613's diary

yuichi0613の雑記、写真、日々の記録。

福島にいってきた

先週末開催された「ふくしま会議」に参加してきた。
「福島の声を共有しよう」という趣旨のもと、さまざまな意見が出された。
会自体はテレビや新聞など多くのメディアが取り上げたし、主催側もUstreamでの生中継をいくつかの会でやったり、Twitterで情報発信したり、試み自体とても興味深いものでもあった。


と、内容については本業のネットメディアのほうでとり上げるとして。


会で印象的だったのは、東京電力、そして国への、憎しみに近い感情だ。
震災直後は甲府におり5月から東京に戻った私からすると怖さすら覚えた。
これまで住んでいた土地を、福島を、そして自分たちを、彼らがいう「人災」によって穢した。
それに対し、私がきっとどれだけ想像してもしきれない強い感情を持っているのだろう。

放射能。

これはおそらく言ってもいいと思う。
おそらく事実だから。
そして、私もそうだから、棚に上げることはあまりよくないけど。
みながきっと、あの場所に原発があるリスクを、意味を、想像仕切れなかった。
近くにありながら、放射能というのがどんなものか知らなすぎた。


福島から東京へ帰った。
翌日の東京新聞に、たしか大気中の飛散放射線量が掲載されていた。
(不正確だったら失礼)
福島から以南が記載されていたその地図には、原発間近の飯館が異常な値を示し、福島市があきらかに高い値を示していた。
ぞっとした。
こんなところにいたのだ。
しかし、一方でそこに住んでいるひともいる。
そして何より、その放射線量が果たして人間の身体にただちに影響のある値なのか、知らないのだ。

東京新聞には、同時に自然放射線量の地図も掲載されており、東日本より西日本のほうが高い。
あとで知ったが、大理石などはウランを含んでいるなど、地質によって自然放射線量の値は変わってくる。
西日本はその点、高く、関東ローム層に包まれた関東は線量の値が低い。

放射能に対する恐怖。
これは多くは植え付けられた原爆などの記憶に基づくものだろう。
マスメディアで喧伝されたものもある。

でも、その恐怖は心の底からわいてくるのに、なぜそれが危険なのかはわからない。

その目に見えない悪魔が、どのようにして私たちの身体の、大地の、植物の、家畜の、海洋生物の今を、未来を壊すのか。

会で印象に残った言葉がある、

「不確実性に対する過剰反応の正当性」

震災後、事故後、どれだけの量の放射線が飛散したのか。
その放射能は、どれだけの量を、どの時間浴びたら危ないのか。

放射能の恐怖におびえた人々は、この「不確実性」に「過剰反応」で対抗する。
それから逃げる。それを突き放す。それを仲間はずれにする。

個々の生命体として、おそらくそれが「正当」なのだろう。
言いたいことはわかる。
でも、この虚しさはなんだろう。


「不確実」なものを、より確実なものにする手段はないだろうか。
「過剰反応」で辛い思いをするひとを減らせないだろうか。
「正当性」を個々人ではなく、社会に求める工夫はないだろうか。



ひとりにできることがあまりに小さいし、おそらくこのふくしま会議も多くの人に伝わらないのだという歯がゆさを感じながら、「フクシマ」という言葉に新しく付けられた不名誉な意味のことを考えている。