自分のケツを拭くということ
かなり久しぶり。
今日、ある人から比較的強めなメッセージをいただいた。それは端的に言えば、自分で拭けるケツを持て、ということだ。
思い返してみれば、人の思いをいくつ踏みにじったのだろうと思う。ひとりで頑張る方に対して、「言ったんだからやってくれ」と突っぱねて、結局はそのひとが成果を出せないまま終わった。ほんの半年前のことだ。
自分がこれだけ動いてるのだから、ほかの人も動いてくれるはずだ。無意識のうちか意識的になのか、ひとによって態度を変えて「お願い」の域を越えた物言いをする。
相手も人間だ。
自分はやっていると勝手に思い込んでいる人に対して、本当にやっているかを伝えないままにそれをお願いしても理解や主体的な働きは得られない。
そのひとがどうなのかは、ちゃんと言わないと伝わらないのだ。
役職でひとを判断するひともいるが、目の前で振る舞うそのひとを見てどんな人かを判断する。それはとても当たり前のことだ。
メリットやデメリットの前に、なぜ動くかはそのひとの感じ方によるのだ。
率直にそれを伝えてくれた彼には、大きな感謝とお詫びを伝えたい。
これまでの振る舞いと、それが与えるほかの人への影響を考えれば、自分の振る舞いに対して幻滅と失望は禁じ得ない。
なりたくないと思っていた人に、近づいていたことに気づいたからだ。
利ばかりを追い求めるひとは、そういう人には好かれるが、そうじゃない人には嫌われる。自分はそれを嫌う側だと思っていた。そうじゃないんだと、今回のやり取りで気付くことができた。
「あの人が言うなら」。
そういう人になりたいと思っているのに、自分の体たらくには残念な気持ちもあるが、今回気づけたことに感謝して、これまで関わった方々のイメージの転換と、これからの人たちへの接し方を変える努力をしてみよう。
いまなら間に合う。
人にやらせてではなく、自分のケツは自分で拭くためにあるのだ。