yuichi0613's diary

yuichi0613の雑記、写真、日々の記録。

「寡占」と日本

ここ最近、よく寡占という言葉を思い浮かべる。

いろんな場所での「寡占状態」が、日本の戦後を支えたんじゃないかなあと思えてきた。

寡占 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%A1%E5%8D%A0

寡占(かせん、Oligopoly)は、市場の形態の一つで、ある商品やサービスに係る市場が少数の売り手(寡占者、寡占企業、oligopolist)に支配されている状態のこと。少数が一社だけである場合は独占(monopoly)、二社ならば複占(duopoly)、という。

このような市場では売り手側の参加者は事実上少数なので、寡占企業はそれぞれ、他の寡占企業の動向に敏感に反応する。

興味がら、新聞社の寡占状態と日本の報道を念頭に置いていたんだけども、「人間を幸福にしない日本というシステム」(カレル・ヴァン・ウォルフレン)を読み読みしていくうちにゆるーく関心を持ち始めた。

仮に、というifが通じないのはわかってはいるのだけども、この報道主体の寡占だとか、著者が「官僚独裁主義(bureaucratic authoritarianism)」と呼ぶ権力の寡占がない日本はどんなだったろうか。
いまの日本をなんとなしに、影から作りあげてきたこのふたつの主体(実際の影響力は当然、官僚>報道ですが)。
ふたつともそのシステムの監視者がいないという点でよく似ている。
だからこそ、これらの批判が大きな声とならずに戦後50年くらい?がすぎていったし、監視者の不在と寡占状態による競争の不在によって、この時代になっても見直されることはなくつづいているのだろうなと感じた。私は、官僚制、現在の新聞の寡占状態が、中央集権的政治システムが飽和状態にあるこの時代にもう合わないと思っている、たぶん。一定の必要性は当然あるにせよ。
でも一方で、これらはあくまで「システム」なので、自浄作用は望むべくもなく、また根本的にシステムを変えるようなことは難しいとも思っています。
私は、新聞に限るけども、だからこそ一度全部潰れてしまえと、少し思っている。
昔からのシステムに絡めとられてしまっているひとはたぶん多い。
もっかい、あらためて問い直す機会がおとずれているのでしょう。

マスコミのことをあまり体験的に知らない私だけど、だから思うことはいろいろあるし、それを声にしていきたいな。